古語「かへす」と「もどす」の違い – 日本語における自他動詞の基本
日本語の奥深さは、その微妙なニュアンスの違いにあります。特に古語における動詞の使い分けは、現代の私たちにとって難解でありながらも、言葉の変遷を知る上で非常に興味深いものです。今回は「返す」という行為を表す古語「かへす」と「もどす」、そして自動詞「かへる」の違いについて掘り下げていきます。
古語における自他動詞の基本概念
古語においても現代語と同様に、自動詞と他動詞の区別は重要な文法的特徴でした。自動詞は主語が自ら行う動作を表し、他動詞は主語が他のものに対して行う動作を表します。「かへる(帰る・返る)」は自動詞、「かへす(返す)」と「もどす(戻す)」は他動詞という関係性があります。
古文を読む際、この自他の区別を理解していないと文脈を正確に把握できないことがあります。例えば、『源氏物語』や『枕草子』などの古典作品では、これらの動詞が繊細なニュアンスを伴って使い分けられています。
「かへす」の意味と用法
「かへす」は現代語の「返す」に相当する古語で、主に以下のような意味で使われていました:

1. 物理的に物を元の場所や持ち主に戻す
– 例:「借りたる書を主にかへす」(借りた本を持ち主に返す)
2. 応答する、返答する
– 例:「言葉をかへす」(言葉を返す=返答する)
3. 反転させる、裏返す
– 例:「袖をかへす」(袖を返す=裏返す)
4. 報いる、報復する
– 例:「恩をかへす」(恩を返す=恩返しをする)
『平家物語』には「敵の矢を射かへす」(敵の矢を射返す)という表現があり、「かへす」が「反撃する」という意味で使われています。このように「かへす」は単に物理的な返却だけでなく、感情や行為の応酬も表現できる多義的な言葉でした。
「もどす」の微妙なニュアンスの違い
一方、「もどす」も現代語の「戻す」に相当しますが、「かへす」と比べるとより具体的な「元の状態・場所への復帰」というニュアンスが強い傾向がありました:
1. 元の状態・場所に戻す
– 例:「道より家にもどす」(道から家に戻す)
2. 取り消す、撤回する
– 例:「言葉をもどす」(言葉を取り消す)
3. 吐き出す(特に江戸時代以降の用法)
– 例:「飲みたるものをもどす」(飲んだものを吐き出す)
国立国語研究所の古典コーパスによると、平安時代の文学作品では「もどす」よりも「かへす」の使用頻度が約3倍高いというデータがあります。これは「かへす」がより広い意味範囲を持ち、文学的表現に適していたためと考えられています。
自動詞「かへる」との関係性
自動詞「かへる」は、主体が自ら「帰る」「返る」動作を行うことを表します:
1. 元の場所に戻る
– 例:「家にかへる」(家に帰る)

2. 元の状態になる
– 例:「心かへる」(心が変わる)
3. 繰り返す、循環する
– 例:「春はかへる」(春は巡ってくる)
「かへる」と「かへす」の関係は、現代語における「帰る/返る」と「帰す/返す」の関係に相当します。「かへる」が自発的な動作であるのに対し、「かへす」は他者に対する働きかけを含意しています。
古語の自他動詞の使い分けを理解することは、単に古文の読解力を高めるだけでなく、日本語の歴史的変遷や言葉の持つ繊細なニュアンスを感じ取る感性を養うことにつながります。次のセクションでは、これらの言葉が時代とともにどのように変化してきたのかについて探っていきます。
「かへる」と「かへす」の語源と歴史的変遷 – 古語から現代語への橋渡し
古語における「かへる」と「かへす」の原義
日本語の「かへる(帰る・返る)」と「かへす(返す)」は、現代でも頻繁に使われる基本動詞ですが、その語源は奈良時代以前にまで遡ります。古語では「かふ(交ふ・替ふ)」という動詞が基になっており、これは「交換する」「入れ替わる」という意味を持っていました。この「かふ」から派生した「かへる」は自動詞として、「かへす」は他動詞として使い分けられてきました。
万葉集や古事記などの古典文学では、「かへる」は主に「元の場所や状態に戻る」という意味で使われ、「かへす」は「物や状態を元に戻す」という他動詞として使われていました。特に注目すべきは、当時は現代のような「帰る(家に戻る)」と「返る(元の状態に戻る)」という漢字の使い分けが明確ではなかった点です。
平安時代から室町時代への変遷
平安時代になると、「かへる」と「かへす」の使用法がより洗練されていきます。源氏物語や枕草子などの文学作品では、これらの言葉が多様な文脈で登場します。
例えば、源氏物語の一節:
「山里に春をかへす花の色を見てぞ知りぬる年のへぬれば」
ここでの「かへす」は「取り戻す」「呼び戻す」という意味で使われており、自然の循環を表現しています。
室町時代に入ると、「かへる」「かへす」の使用法に微妙な変化が見られます。特に「もどす」という語彙も一般化し始め、「かへす」との使い分けが生まれました。この時代の狂言や能の台本を見ると、「かへす」は物理的な返却や方向転換を、「もどす」は状態の復元を表す傾向が強まっています。
江戸時代の言語使用と意味の分化
江戸時代に入ると、「かへる」と「かへす」の自他動詞の使い分けがより明確になりました。特に注目すべきは、この時代に漢字表記による意味の区別が定着し始めたことです。
| 表記 | 主な意味 | 用例(江戸時代の文献より) |
|——|———-|—————————-|
| 帰る | 家や本拠地に戻る | 「日も暮れたので帰るとしよう」 |
| 返る | 元の状態・場所に戻る | 「言葉が胸に返る思いがした」 |
| 返す | 物を元の持ち主に戻す | 「借りた本を返すのを忘れた」 |
| 帰す | 人を帰らせる | 「客を帰すのが遅くなった」 |
江戸時代の戯作や浄瑠璃の台本を分析すると、「かへす」は「物を返却する」「方向を逆にする」という意味で使われることが多く、「もどす」は「元の状態に戻す」という意味合いが強くなっています。この時代の言葉の使い分けは、現代日本語の基礎となっています。
明治以降の標準化と現代への継承
明治時代の言語改革により、多くの古語が整理され、標準日本語が確立されました。この過程で「かへる」「かへす」の表記も「帰る」「返る」「返す」などと漢字によって明確に区別されるようになりました。
特筆すべきは、明治期の文豪たちが古典的な用法と新しい表現を融合させた点です。夏目漱石や森鴎外の作品では、「かへる」「かへす」の微妙なニュアンスの違いを活かした表現が見られます。
現代に至るまで、これらの動詞は日本語の基本語彙として重要な位置を占めています。特に「かへす」の古語的用法は、「言葉を返す」「目を返す」など、比喩的な表現の中に今も生きています。このように、古代から連綿と続く言葉の使い分けの歴史は、日本語の豊かさと奥深さを物語っています。
自他動詞の使い分け術 – 「かへす」「もどす」「かへる」の正しい用法
自他動詞の基本と古語での使い分け

日本語において、動詞の自他の区別は現代でも混乱しやすいポイントですが、古語ではさらに独特の使い分けがありました。「かへす」「もどす」「かへる」という言葉は、現代語の「返す」「戻す」「帰る・返る」に相当しますが、その用法には微妙な違いがあります。
古語の「かへす」は他動詞で、「物や状態を元に戻す」「応答する」「反対方向に向ける」などの意味で使われました。一方、「かへる」は自動詞として「自分が戻る」「変化する」という意味合いを持っていました。「もどす」も他動詞ですが、「かへす」よりも物理的な移動や位置の変化を強調する傾向がありました。
「かへす」の用法と例文
「かへす」は他動詞として、主に以下のような場面で使われていました:
1. 物を元の場所・状態に戻す
例:「借りたる書物をかへす」(借りた書物を返す)
2. 言葉を返す・応答する
例:「君の言葉にかへすことばもなし」(あなたの言葉に返す言葉もない)
3. 方向を反対にする
例:「舟の向きをかへす」(船の向きを変える)
4. 繰り返す
例:「思いをかへすかへす述ぶ」(思いを繰り返し述べる)
「かへす」は、現代語の「返す」だけでなく「反す」「帰す」「還す」「覆す」など、複数の漢字で表記されることがあり、文脈によって意味合いが変わることも特徴的です。
「もどす」の特徴と使い方
「もどす」も他動詞ですが、「かへす」と比べると使用頻度は低く、より具体的な物理的移動を表す傾向がありました:
1. 物理的に元の位置に戻す
例:「御簾(みす)をもとの位置にもどす」
2. 状態を元に戻す
例:「乱れたる髪をもどす」(乱れた髪を整える)
「もどす」は「戻す」「元す」などと表記され、「かへす」よりも物の位置や状態の変化に焦点を当てる傾向がありました。言葉を返すような抽象的な用法は少なかったようです。
「かへる」の多様な意味
自動詞の「かへる」は、以下のような多様な意味で使われていました:
1. 元の場所に戻る
例:「夕暮れに家にかへる」(夕暮れに家に帰る)
2. 元の状態になる
例:「心静かにかへる」(心が静かになる)
3. 変化する
例:「色かへる紅葉」(色が変わる紅葉)
4. 反対になる
例:「思いかへる心」(思いが変わる心)

「かへる」は「帰る」「返る」「変える」「代える」など、様々な漢字で表記され、文脈によって意味が変化する豊かな表現でした。
現代語との比較で見る変遷
現代語では「返す・戻す」と「帰る・返る」の区別が明確になりましたが、古語では「かへす」「かへる」の意味範囲が広く、文脈依存性が高かったことが特徴です。
特に興味深いのは、古語の「かへす」には現代語の「繰り返す」という意味合いが強く含まれていた点です。「かへすがへす」(返す返す)という表現は「繰り返し」を意味し、現代でも「返す返す申し上げる」などの形で残っています。
言葉使い分けの観点からは、古語においても自他動詞の区別は重要でしたが、現代よりも意味の幅が広く、より文脈に依存していたと言えるでしょう。この微妙なニュアンスの違いを理解することは、古典文学を読み解く上での大きな手がかりとなります。
文学作品に見る「かへす」の用例 – 古典から読み解く言葉の豊かさ
『源氏物語』に見る「かへす」の多様な表現
平安時代の文学作品、特に『源氏物語』には「かへす」の豊かな用例が散りばめられています。紫式部は言葉の機微を捉えた表現で、「かへす」の多様な意味合いを描き出しています。
たとえば、「言葉を返す」という意味では「御返事もかへさせたまはず」(お返事も返されなかった)という用例があります。ここでは単なる返答だけでなく、相手の言葉に対する応答という社会的やりとりを表現しています。
また、「物を返す」という物理的な意味では「御文をかへし奉る」(お手紙をお返しする)という表現も見られます。ここでの「かへす」は、物の授受における礼節や関係性の機微を含んでいます。
特に注目すべきは、「かへす」が感情や状況の転換を表す用例です。「心をかへす」(気持ちを変える)という表現は、現代の「気持ちを切り替える」に近い意味で使われており、平安貴族の繊細な心理描写に一役買っています。
和歌における「かへす」の情緒
和歌の世界では「かへす」は特別な情緒を帯びた言葉として用いられてきました。『古今和歌集』や『新古今和歌集』には、「かへす」を用いた数々の秀歌が収められています。
例えば、
「思ひやる 心はかへす 便りなし 雲路へだてて 遠き山里」
この歌では「かへす」が「心を戻す」という意味で使われ、遠く離れた人への思いを届けられない切なさを表現しています。「かへす」という言葉一つで、往復する思いの動きが鮮やかに描かれているのです。
また、「返歌」(かえしうた)という形式自体が「かへす」の文化的重要性を示しています。和歌の贈答において、相手の歌に対して詠み返す歌は単なる返答ではなく、言葉と心を「かへす」行為として重視されていました。
近世文学における「かへす」と「もどす」の使い分け
江戸時代になると、「かへす」と並んで「もどす」の使用も一般的になってきます。井原西鶴の『好色一代男』や近松門左衛門の浄瑠璃作品では、両者の微妙な使い分けが見られます。
『好色一代男』では「金をかへす」という表現が多用されますが、これは単に物理的に金銭を返すだけでなく、借りた恩義を返すという道徳的な意味合いを含んでいます。一方、「もどす」は「元の場所へもどす」といった物理的な移動を表す場面で多く使われています。
浄瑠璃作品『曽根崎心中』では、「命をかへす」という表現が印象的です。これは「命を返す」という直接的な意味ではなく、「命を捧げる」「命で報いる」という意味で使われており、「かへす」の持つ「応答性」「相互性」という意味合いが強調されています。
現代文学への継承と変容

明治以降の文学作品では、「かへす」は「返す」と表記されるようになりましたが、その多義的な用法は継承されています。夏目漱石の『こころ』では「言葉を返す」という表現が人間関係の機微を表現するのに用いられ、川端康成の『雪国』では「視線を返す」という表現で登場人物間の微妙な心理的やりとりが描かれています。
現代小説では、古語としての「かへす」の用法を意識的に取り入れる作家も見られます。三島由紀夫は『潮騒』などで古典的な言葉遣いを現代文脈に組み込み、「かへす」の持つ情緒を再現しています。
このように、「かへす」という言葉は単なる自他動詞の使い分けを超えて、日本文学の中で豊かな表現の可能性を開いてきました。古語としての「かへす」の用法を知ることは、日本語の言葉使い分けの機微を理解する上で、現代においても大きな意義を持っているのです。
現代語の「返す・戻す・帰る」との比較 – 古語「かへす」の名残と変化
古語から現代語への変遷
古語の「かへす」「もどす」「かへる」と現代語の「返す」「戻す」「帰る」は、表記と意味の両面で興味深い変化を遂げています。平安時代には「かへす」という一つの動詞が多義的に使われていましたが、現代では意味によって漢字表記が分化し、より明確に使い分けられるようになりました。
現代語では:
– 「返す」:物を元の所有者に戻す、借りたものを返却する
– 「戻す」:物や状態を元の位置・状態に戻す
– 「帰る」:人が出発点や家に戻る
この使い分けは、古語「かへす」の多義性が現代語では異なる漢字表記によって整理された結果と言えます。言葉の意味が分化し、より精緻になったことで、現代の日本語はニュアンスの違いを表現しやすくなっています。
日常会話に残る古語「かへす」の名残
現代の日本語にも、古語「かへす」の用法が残っている表現があります。例えば:
– 「言葉を返す」(反論する)
– 「恩を返す」(恩返しをする)
– 「手紙の返事」(返信)
– 「振り返る」(過去を思い出す)
これらの表現は、平安時代の「かへす」が持っていた「反応する」「応答する」という意味合いを今に伝えています。特に「返事」という言葉は、「かへす」の連用形「かへし」から派生した名詞であり、古語の直接的な名残と言えるでしょう。
古語 | 現代語 | 残存する表現例 |
---|---|---|
かへす(返す・帰す) | 返す | 言葉を返す、恩を返す |
かへる(返る・帰る) | 帰る | 帰り道、帰省 |
もどす | 戻す | 元に戻す、取り戻す |
方言に見る古語「かへす」の保存
興味深いことに、現代の一部の方言では、古語「かへす」の用法がより直接的に保存されています。例えば、東北地方の一部では「かえす」を「帰る」の意味で使うことがあり、これは古語の自動詞的用法の名残と考えられます。
また、関西方言では「返る」という表現が「帰る」の意味で使われることがあります。「今日は早く返るわ」(今日は早く帰るよ)といった使い方は、古語「かへる」の多義性を今に伝える貴重な言語資料です。
方言は標準語化の波に飲み込まれつつありますが、こうした古語の痕跡を今なお保持している点で、日本語の歴史を紐解く重要な手がかりとなっています。
自他動詞の使い分けの変化と現代的課題

古語における「かへす」と「かへる」の自他の関係は、現代語にも引き継がれていますが、その使い分けには微妙な変化が見られます。例えば:
– 古語:「物をかへす」(他動詞)→「物がかへる」(自動詞)
– 現代語:「物を返す」(他動詞)→「物が返る」(自動詞、ただし使用頻度は低い)
現代では「物が返る」よりも「物が戻る」という表現の方が一般的になっており、自他の対応関係にずれが生じています。このような変化は、言葉の自然な進化の過程で起きるものですが、正確な日本語を学ぶ上では注意が必要です。
特に日本語学習者にとって、「つける/つく」「あげる/あがる」のような自他動詞の対応は難しい学習ポイントとなっています。古語「かへす」の変遷を理解することは、こうした日本語の特性を深く知る手がかりとなるでしょう。
言葉は時代とともに変化しますが、その根底には古来からの用法が脈々と受け継がれています。「かへす」「もどす」「かへる」の使い分けを通して、日本語の豊かな表現力と歴史的連続性を感じ取っていただければ幸いです。
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